昭和44年3月2日 特別奉修委員
私はお湿りが大変好きな男ですが、特に夜中など、お湿りの音を聞いておると、本当にどこまで自分の思いというものの深さというか、心の中に深く何か楽しいものを感ずるんですよね。お湿りの音を聞きながらですね、お茶でもするとか、ね、お湿りの雨だれの音を聞いて自分の心を深く見つめるとか。確かにお湿りは心を静かにします。落ち着きます。
今朝も私、控えに出てまいりましたら、お湿りがあっている。お湿りの音を聞いてから有り難いけれども今日は田中さんところで地鎮祭があることのお届けがあってました。地鎮祭があるというのに私は、けれども思うんですよね、本当にひとつのお湿りが好きだとこういう、いくら私が好きだからと言うても、なら新聞配りさんやらね、郵便配達さん達のことを思うたらね、これはお湿りが好きだけなどは言うておられないと思うですよね、うん。
本当にもう朝早うから、新聞を取りに行って、新聞を配りに行かなければならん中には、んなまあだ中学生ぐらいな、小学生になる人達もあるのに、このやっぱりお湿りを(おかして?)、それでもやはり新聞であればどうしてもその雨をついて、やはりしるしいけれども行かにゃできん。郵便配りさんでも今日は雨が降りよるから、もう今日はしるしかから今日はやめようというわけにはいけん。
その人達のために、これほんにお湿りがいいとかね、お湿りが好きとかというだけは言うておられないという感じがするんですね。お互い、このお湿りは( ? )ということではないですけれども、只、自分の都合で、自分よがりに、こういうこれがええ、これが好きの嫌いのということは、それはいけないことだと。誰彼になってみると、それがもう(耳握る?)ごといやという人があるかもしれんのですからね。
ですから本当、ここんところはおかげを頂いていかなきゃならんと思うのですけれども。本当に今度、自分が例えばんなら新聞配りさんになった気持ちで、または郵便もっちゃんになった気持ちでね、そういう中にお湿りの中にですね、例えば雨なら雨、風なら風の中にでもね、そのことが好きだということ、ね。例えばそういう中に飛び出していくということがまた、元気が出ることだというようなね、意味合いというかね、例えば雨が降るから風が吹くからえらい大義と思うてはならんと。その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと仰せられるから、例えばそのお湿りの中に、お湿りをついて、風をついて、お参りをする、ね。
または、お湿りをついて、雨風をついて自分の仕事に打ち込んでいく、ね。それが身に徳を受ける修行じゃというようなことが分からせて頂いて後にです、ね、私は自分の家の中で、または寝床ん中で、お湿りの音を聞くのが楽しいとか有り難いというのならば、私は有り難いと思うですね。
けれども、只、自分だけが中心であってね、今日はどこでその、外でのしるしい思いをしておる人達のことなんかは、前々念頭におかずに、只、お湿りの音を聞いておることはいいと、雨だれの音を聞いとると何とうなしに心が落ち着いていいのだと言うてね、これは私は自分よがり。信心をさして頂くとね、そういうような、例えば自分よがりの考えの持っておるようなことがあります、ね。
わがだけよか気色になっとる、ね。人の迷惑なんかは前々考えない、ね。はあ、家は(だいく?)頂いといて、南妙方蓮華、もう隣近所は迷惑、迷惑なんか前々考えてない。それがならいけないのじゃないけれどもです、なら他所から家は大工にも似たようなやかましい音が聞こえてくる時でもです、ね、言うなら御祈念中に隣がジャンジャンやってラジオをかけるとか、ね、さあ隣が鉄鋼所か何かでガッチャンガッチャンいわせるとか。
はあうるさい、もう本当、とこういうようなことではね、私は(うちはだいくをうちたたいて?)有り難いと言うておれないと思う、ね。他所から入ってくるその雑音もまたです、ね、有り難く受けられるとか、そのひとつのどういう、例えば御祈念中に椛目の場合なんか、裏の(?)さん所がもう朝必ず御祈念に朝のラジオをかけられよったですよ、昔。もうきちっとかけられよるとです。もう本当に、ああ金光様が御祈念が始まったけんで家はラジオなっとうかけよっち言いよんなさるとじゃなかじゃろうかっちゅうごとラジオがかかってきよったです、ね。
初めの間はそれがどうしても耳障りになって御祈念ができなかったけれどもです、だんだんだんだん、向こうには向こうの都合があるのだから、それを今度はだんだん分からせて頂いてね、そのひとつのリズムにのって、御祈念をさして頂いておるとね、ちょうど、やはり何ちゅうですかね、浪花節さんが影の(むすじ?)がなからなければ語られんようにね、もう却ってそのラジオの入ってくることによって有り難い御祈念ができるようになるというようなことがあったね、椛目の時代。
そしたらどういうことかぴたっとラジオを止められました。裏の方の(?)さんがですね。その自分の御理解頂いた方はそれを聞かれたことがあろうと思うけれどもですね。本当に相手のことも考えて、しかもそれが自分の声に同化してくるというかね、有り難いものに一緒になってくるという。どんなにお湿りが好きだと、お湿り、雨だれの音を聞くのが楽しい。だからお湿りの音を聞くのはいいなと思うけれども、日傭取りの人達はどんな思いでこのお湿りを聞いておるだろうか。
ああ今日も働きに行かれんと思うて、このお湿りがね、恨めしいようにあるだろう、ね。本当にこの雨の中に風の中に、ね、例えば新聞配りの少年達が今日でもやっぱり新聞配りをしておるだろうと思うたらです、只、お湿りの音を聞いて楽しんでおれるようなわけにはいけんのだと。今朝そんなことを私、控えでね、考えさせて頂いたんです、ね。
けれどもです、その自分自身がそのお湿りの中に飛び出していくことの中にです、ね、雨が降るから風が吹くからえらい大義と思うてはならん。その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと分からして頂いて、その雨もまた風も楽しいということが分かって、そして家で楽しませて頂くのなら、これなら分かる。これなら有り難い。家は誰かのそれと同じこと。これもやっぱひとつの信心ですから、ね。自分がその(うちはだいくの? )なら南妙方蓮華経で有り難うなっていきよるのだから、ね、それが有り難いならです、ね、やはり隣から聞こえてくるガッチャンガッチャンいう、その例えば音でもです、ね、はあ隣はもう朝から繁盛しよるなあというふうに喜んでやれるような心持がね、やかましか、朝っぱらからというようなことで自分がいくら(うちはだいく?)を立たせたってだめだと思う、ね。
そういうところを信心を分からせて頂くことがです、信心の深さに触れていくというのではなかろうかと思う、ね。
只、自分の願い事だけが成就すりゃもうそれでよいといったような考え方は、これは本当の信心じゃないと思うね。どうぞ。
明渡真